赤井直正の城「黒井城」跡 城山356.8m個人山行

UPDATE 2024-06-26


【日 程】 2024/06/22(土)
【参加者】 会員3名
【コース】 亀岡=春日町登山口…三段郭…展望台…本丸…千丈寺山砦…大野峠…大野…登山口
【記 者】 kamemaro


「当てにならない天気予報では☂ 私の予報は、昼過ぎまでは曇り又は時々晴れ」。何処か行かなければ「もったいない!」と、常々行きたいと思っていた黒井城へ行くことにする。

黒井城は、丹波市春日町の城山にある。

明智光秀は信長の命により丹波攻略を進める。丹波の赤鬼と言われた猛将「赤井直正」を黒井城に攻撃中、篠山にある八上城の「波多野秀治」の寝返りにより背後から攻められ、退却を余儀なくされる。

その後、丹波平定の拠点として「亀山城」を亀岡市に築き、二度目の黒井城攻めを行い八上城と共に攻略する。八上城では、波多野三兄弟の投降を促すため母「まき」を人質として差し出し、投降した三兄弟を安土城の信長の元へ送るが、三人とも処刑されてしまう。これに怒った荻野の残党は、母を磔にし明智の陣地からよく見えるところで処刑したという(これは、後に作られた創話のようであるが、大河の脚本にあったなら、石川さゆりのこのシーンが見たかった)。このような信長の仕打ち(他にも色々ありますが)等が引き金となってか?織田家臣団の中で最も信長の信頼を得ていたと言われる光秀が、なぜ本能寺に至ったのか?この光秀の心の葛藤を示唆する大切な部分が、大河ドラマでではコロナのためか割愛されていた。この部分がなければ、光秀はただの謀反人として受け取られるだけで、亀岡人として何とも”許しがたい!!!”

赤井家が滅びた後、光秀の家老「斉藤利光」が城主としてこの地域を治めるが、その間に生まれた子「ふく」が、後の徳川三代目「家光」の乳母である「春日局」となり権勢を振るう。

こうしてみると、歴史って面白いものですね。浅井長政と信長の妹「お市」の二女「ごう」姫が二代将軍「秀忠」の妻であり、その子(三代将軍家光)の乳母が「斉藤利光」の子供であるなんて…。

まあ、そんな歴史的に興味のある「黒井城」に、行ってみたかった。

亀岡から約1時間で城山の登り口に着く。左の道は「ゆるい道」、右の道は「キツい道」、当然右を行く。道は、地元の城跡を大切にする人々により、よく整備されている。

三段郭を越えると右に踏み跡があり、展望台に続く。南東方向の展望が良く金山城跡(黒井城と八上城の連絡を絶つために光秀が築城した)から三尾山、小金ヶ岳、三嶽がよく見える。登山道に戻らず尾根筋の最短距離を登ると、右から登ってくる登山道と合流する。獣よけの金網を越えると、まもなく本丸のある山頂に着いた。

山頂は、キレイに整備されベンチが置かれた、遮るものがない360度の展望台である。連なる山々の間から、遠く青葉山が三角形の頂上部分だけをつきだして見える。

本丸だけでは城の防御状態もわからないので、西に延びる尾根上にある「千丈寺山砦」まで足を延ばす。本丸からはキツい岩混じりの細い尾根になるが、所々ロープが固定してある。本丸までの登山に道とは違って、こちらは整備されていない尾根であるが、当時の様子をうかがい知る堀切や物見台、郭の跡などが点在しており、登山の楽しさと共に興味も湧いてくる。

千丈寺山砦の面影は失われているが、三方を谷に囲まれたピークにあり、城の西側を守る大切な砦であったことがよくわかる。

千丈寺山砦からは、さらに西側にある大野峠まで踏み跡を約100m下り、左方向へ少し下ると堰堤工事中の林道に出た。

城山の裾に沿って、人通りの少ない町中の道をゆっくり歩き、1時間余りで登山口の駐車場に着いた。

天気「帰る頃から、ピリピリとしだした。」天気予報、鵜呑みにすると損しますよ!!